2016. 09. 12  


私の住むマンションのベランダ側には、道路をはさんで4軒の一戸建てが建っている。私の部屋は三階で、仕事のときはベランダ側を向いているので、この4軒の屋根はイヤでも視界に入ってくるが、ベランダ側には高い建物がなく、遠くに森が見えたり、空も見えて、景色の抜けがとてもいい。

4軒の屋根を毎日眺めているので、余計なお世話とは知りつつ、よそ様の屋根の劣化具合が気になっていた。仕事上、家のリフォーム時期の相談をよく受けるので、この4軒さんにはなるべく良い時期に修繕してほしいと願っていたが、そうはいかないのだった。

家のリフォームは時期を選ばなければならないと、普通は誰も思わないのだろう。最も大事なことの一つなのだが・・・。

この4軒は同時期に建てられたと思うのだが、右はじの家がいちばんお金のかかっていそうな家で、ここの奥さまは髪を紫色に染め、その姿はまるで紫のポンポンの花を咲かせるアリウムみたいだ。ゆえに、アリウムさんと勝手に呼んでいる。推定年齢70歳のアリウム夫人は頭が紫なので、スーパーで見かけてもすぐ判る。知らない同士なのに、つい挨拶しそうになる自分が可笑しい。

アリウム夫人はマメな人で、私がベランダで洗濯物を干していると、家の周りを掃き清めていたり、庭先でガーデニングをしていたり、ゴミの収集車が来たあとは率先して掃除をしていたり、ご近所さんともよく立ち話をしていて、社交的で明朗闊達な女性とお見受けしたが、最近とんと見かけなかった。一昨日の朝、ベランダで洗濯物を干していたら、なんとアリウム夫人が杖をついて歩いている。脳卒中で片側が麻痺しているような歩き方。

4軒の中でアリウムさんちがいちばん先に外壁をピカピカに掃除し、屋根を新しいスレートにしたのだが、私がアッと驚いたのはそれが2013年8月、五黄の年の五黄の月だったこと。よりによってこんな時期にと心配していたが、元気だったアリウム夫人が杖をつく身になろうとは。紫の頭は趣味ではないものの、ご近所の道路まで掃除していたアリウム夫人に勝手にシンパシーを感じていただけに、気の毒で仕方がない。

アリウムさんちの次にリフォームしたのは左はしのお宅で、これがまた4月の土用中だった。足場が撤去されてみると、屋根の新しいスレートは赤みがかった朱色、外壁は白く塗られ、映画「小さいおうち」で松たか子が住んでいた家のようになっていた。こうした色合いを男性は選ばないだろうから、奥さまが映画にインスパイアされて決めたのだろう。勝手に眺めている身にはあの映画が思い出されて、なかなかよろしいのだが、土用中の造作には五黄の作用が出てくるから劣化が早いはずだし、家族に問題が起こらなければよいがと、これまた勝手に心配してしまう。

そして3軒目は右から二番目のおうちで、アリウムさんちのお隣が現在リフォーム真っ只中である。こちらは外壁が茶色なのでブラウン宅と呼んでいる。ミスター・ブラウンは50代前半で、私の弟と同年輩の感じ。マメなお父さんで、日曜日になると通販で見かけるような高枝切り鋏で庭木の剪定をしていたり、家の周りの草むしりに余念がない。

ミセスはちゃきちゃきしたしっかり者という感じで、これまた弟の妻に雰囲気が似ていて、陽気なアリウム夫人とも仲良し。アリウム夫人はミセス・ブラウンより20歳は年長なので、なにやらいろいろ指導していて、ミセス・ブラウンはそれに従順である。旦那さんの剪定した枝を傍らでせっせとかき集め、ブラウン夫妻は休日のお出かけも一緒で仲が良さそう。ゆえにブラウン宅にも思い入れが強いのだが、足場を組みはじめたのが9月初旬で、これまた五黄の月からはじまってしまった。そのせいか、台風騒動や秋雨前線でちっとも工事が進まない。進行度合いを勝手に心配している。

左から二軒目のお宅だけはまだリフォームに着手していない。旦那さんがイチローに似ているので、鈴木さんとお呼びしているが、次々と周りのおうちがリフォームすると、やっぱり人の心理として鈴木さんも、「うちもそろそろ、やらねばいかんかなぁ・・・」と気になっていると思うが、リフォームの営業マンはこうしたお宅を狙っていくのだろう。

私が勝手に親近感を持っている4軒のお向かいさんのうち、3軒のお宅はリフォームがダメダメの時期だった。しかし、単に土用や五黄を避ければいいというものではなく、本来はそこに住む家族全員の生年月日を鑑なければならない。

相手に迷惑にならない程度の人間観察は実におもしろいものだ。市原悦子演ずる家政婦はいじわるで、あれはあれで痛快だったが、私はご近所に対して勝手に親近感を抱いてしまう気質で、これは田舎育ちのせいかなとも思う。


スポンサーサイト
2014. 08. 27  


出張から戻ってまもなく、私用の携帯に何度か、ふふ子さんから電話が入っていることに気づいたのですが、いつもはそんなことがないのに、なぜか胸騒ぎがするのです。慌てて電話を入れると、「光明が死んじゃった」というふふちゃんの涙声・・・。一瞬、呆然として、情けないことに私は何がなんだか判らないのです。哀しみより先に、「どうして・・・まだ58じゃない」という思いばかりが胸を駆け巡る。ふふちゃんは、奥さんから連絡をもらってからずっと泣いていたと・・・。普段は泣かない女なのに、あまりにも急なことで心の準備というものが出来ていないから、滂沱のごとく涙を流すことしか出来ない。

このお盆にふふ子さんとままひこさん夫妻が人で溢れかえった羽田空港で、偶然にも光明君に遭遇し、同じ便で青森へ帰省したという話を、母の新盆にお参りに来てくれた彼等から聞いたばかりでした。そのときふふちゃんから、「光明、少し痩せてた。出張先のジャカルタで水にあたったらしい」と聞き、相変わらず忙しく飛び回っているんだなと、友の活躍をうれしく思う半面、その激務ぶりを心配もしていました。彼は上場会社の役員で、営業本部長も兼務しており、58歳にしてなお最前線に立って部下の陣頭指揮に当っていました。

企業戦士という言葉がこれほどピッタリな人もいませんでしたが、しかし、その人柄は温厚そのもので、上司の信頼厚く、部下にも慕われた人でした。弱音というものをまったく吐かない、大らかな男でした。

光明君はふふ子さんや私と高校以来の友人で、一度も同じクラスにはなったことがないのに、私はよく彼の下宿先に遊びに行っていました。と書けば、まるでボーイフレンドのようですが、そういった間柄ではなく、男女という枠を超えた気の合う友人で、自宅の部屋はおもちゃ箱をひっくり返したように散らかっているのに(よく母に叱られました)、私は光明君の下宿部屋の掃除婦役でした。

長じて、光明君、ふふちゃん、ままひこさん、新聞記者の柴崎君と奥さんのハニー(愛称)、そして私というメンバーで、ふふちゃん以外はみんな大酒呑みなので、やれクリスマスだ、新年会だと理由をつけては同窓会をしていました。高校時代の仲間が、孫もいるような年頃になっても集まっているケースは稀だと思いますが、毎回、大盛り上がり。

ふふちゃんが下戸なことを幸いに帰路は彼女の運転で、ままひこさん所有の軍艦みたいな大型のワーゲンがバーに早変わり。缶チューハイが薄いと文句を垂れつつ、我々は家に着くまで呑み続け、光明君は自宅の前で缶チューハイ片手に、「じゃあ、また」と、下車したものでした。

老後は、ままひこさんのクリニックの経費で電動麻雀卓を買ってもらい(経費で落ちるかどうかは判りませんが)、年金の支給日には麻雀大会をやる予定でした。医者だからままひこさんの年金支給額がいちばん多いだろうと見当をつけ、その年金を”かもる”のが、光明君と私の老後の夢でした。

「緑一色みたいな、きれいな手で上がるのが好き」と言ったら、「バクチにも美学があるよな」と、言ってくれる人でしたが、「おまえ、もう少し痩せた方がいいんじゃないか」と、最近は会う度に言われておりました。

あれこれ煩いことを言う人ではないのですが、女性は幾つになってもきれいに身繕いをしておくべきという哲学の持ち主だったようで、私が真冬に白いスラックスを履いていたら、「冬の白も、意外性があっていいもんだね」とコメントするのです。ほとんどのおじさんは、おばさんの格好など気にもとめていませんが、光明君はきちんと見ている人でした。それは、奥さんに対しても同じだったそうです。

奥さんは同郷の女性で、中学時代、生徒会長をしていた光明君に憬れていたそうです。彼のいちばんの幸せは、心の温かい奥さんに恵まれたことだったと、しみじみ思います。

私は占術家の性(サガ)で、つい、方位のことなど気になり、お弔いにご自宅へ伺ったとき、「こちらに住まわれて何年になりますか?」などと、奥さんに聞いてしまうのです。「6年になります・・・」という応えを聞いて、2008年、子の一白の年・・・脳出血だから南方位・辰の五黄殺か、などと光明君の亡き骸の前で脳裏を駆け巡らせる・・・イヤな女です。帰路、ままひこさんが、「前の家から見ると、今の家は南の方位になるよ」と、私が方位のことを気にしているのを百も承知の彼は、そっと教えてくれました。

もともと、彼の持って生まれた運勢自体に、「首から上の疾患に要注意」という赤信号が点滅しているのですが、そこへもってきて、「南の五黄殺方位への転居」が58歳の脳出血に拍車をかけたのでしょう。ジャカルタ出張も「寅の八白暗剣殺」方位でしたが、彼は毎週どこかへ出張していましたから、たくさん方災を侵していたと思います。

泣かない女のふふ子さんが、永遠に閉じられた彼の眼を見て、「光明、起きて!」と慟哭しました。帰路、半分冗談で言っていた我々の老後のプランを、彼女は、「私は、本当に楽しみにしていた。それなのに・・・楽しみがなくなってしまった」とつぶやくのを聞いて、嗚呼、本当に光明君は居なくなってしまったんだと、淋しさがしんしんと増してくるのでした。

今、35年ぶりに再び、「ニーチェ」を読みはじめていて、認識を新たにしています。過去の認識といっても「ツァラツストラ」の序章で挫折したお粗末なものですが・・・。

「疲れたらたっぷり眠れ。自己嫌悪におちいったとき、何もかも面倒でいやになったとき、何をしてもくたびれてしかたないとき、元気を取り戻すためには何をすべきだろう。ギャンブル?宗教?流行のリラックス療法?ビタミン剤?旅行?飲酒?
そんなことよりも、食事をして休んでからたっぷりと眠るのが一番だ。しかも、いつもよりずっと多くだ。目覚めたとき、新しい力が漲る別の自分になっているだろう」 ー漂泊者とその影ー

来る日も来る日も仕事で、日本中はおろか、世界中を飛び回っていた友の急死を目の当たりにし、ニーチェのこの超訳の言葉はいっそう身に沁みるのです。もう若くはない。



ー光明君に捧ぐー

 はつ秋に閉じられたといふ優しき眼

 地に落ちて大きかりける空蝉よ

 蓋開けて置かれしビール枕膳

 クーンクーンと愛犬鳴きぬ夜の秋

 帰りなん金の稲穂のふるさとへ

 八月や君はしづかに逝き給ふ




 (千葉の鈴子さん、パソコンからメールをお送りできるよう、携帯の設定を変更くださいませ。よろしくお願いいたします)

2014. 05. 24  

Squall Unimat (Wyeth)

清少納言の枕草子、「すまじきものは宮仕え」という一節。人に仕え人に使われる立場は、できればしないに越したことはない、という意味ですが、平安時代の宮中、お公家さんはへそ曲がりの巣窟で、完璧なヒエラルキー社会ですから、ぽっち眉毛の「いけずなマロ」や、いびりのカリスマ・弘黴殿女御(こきでんのにょうご)みたいな上司が多勢いたのでしょうね。

一方、人を使う立場にも計り知れない苦労があるものです。

ある40代の女性から、「部下なのに、なぜか私に対して上から目線というか、偉そうなのです。仕事ができるわけでもないのに、その自信はいったいどこからくるのか。どう接すればいいのか助言をください」というものがありました。

そこで思い出したのが30年前、私の部下だった「ねじ子」のことでした。プライドがねじ曲がっているから、「ねじ子」。素直にハイといえない女でした。

役員会で使う資料準備を、ねじ子に頼んだのです。たいした仕事ではありません。資料のコンテンツは課長と私で作成し、ねじ子はそれをタイプして、コピーするだけの簡単な作業。たったそれだけなのに、ねじ子に頼むと「ひと悶着」あるのです。

世の中にやっとワープロが出はじめた頃でした。上司に頼んでキャノンのキャノワードを3台導入してもらい、12人いたチーム全員がいち早くマスターしていました。オフィスにファックスが登場して2年目。その前はテレックスを使っていた時代です。ジョン・レノン射殺事件はニューヨーク支店からのテレックスが第一報で、思わず、「ジョン・レノンが暗殺されました」と叫んだら、部内がどよめきました。e-mail の現代からは想像もつかない、昭和の手作業満載のオフィス。

「ねじ子さん、この書類を午前中にタイプしてくださいね」

「え、私がやるんですか?」

まず、こう来るわけです。ねじ子は入社して3年目。こんな仕事は新人にやらせろ、とでも言いたげな「ドヤ顔」ですが、ぶーたれることは先刻承知ですから、もうお構いなしで指示を進めます。あとは、タイプが終われば、内容をチェックし、コピーして終了となるはず。しかし、ねじ子相手だと、そうはならないのです。ややしばらくして、

「課長の字、「い」だか「り」だか判別できないんですけど」と、ねじ子。

「それは「い」。前後の文脈で判るでしょう」

この言葉にねじ子は、かちんと来ているのです。しかし、私からそう言われることも判っているのです。それでも、わざわざ質問に来る「プライドがねじ曲がった女」。入社3年目なのに新人がやるような仕事をさせる、私という上司に腹を立てているわけです。しかし、彼女に難しい仕事は任せられない。役員のコネで入社したねじ子は、明らかに能力不足でした。

そして、できあがった文書をチェックして唖然とするのです。文章中の「い」と「り」がめっちゃくちゃ。

「ねじ子さん、これ文章になっていないでしょう」

「書いてある通り、タイピングしただけです」

自分は間違っていない、課長の字が悪筆だからわるい、とすることで抗議に出てきたのです。 「いーえ。あなたは間違っている」と、ここで相手にしたら、泥沼に入ることを経験で知っていました。ねじ子がタイプした文章に朱筆を入れ、

「これで、フロッピーを修正してください」

内心、はらわたが煮えくり返っているのですが、ここでムッとすれば、ねじ子の思うつぼ。私が、このチームを任されたリーダーだなんて、ねじ子は、はなから思っていないのです。彼女の何倍も仕事をこなし、チームをまとめ上げ、必要があれば休日も出勤している苦労など、ねじ子に判ってもらおうなんて、これっぽっちも思わないけれど、そのときの私は、ねじ子の意地と格闘していました。

「えー、修正するんですかぁ」と、不満をあらわにするねじ子。

「そう。なるべく早くしてね」と、淡々と応じる私。

「でも、ワープロがふさがっていて、使えないんですけど」

このやりとりを聞いていた別のスタッフが慌てて、

「私の仕事は急ぎませんので、どうぞ先に使ってください」と、気をきかせます。

彼女が入社してきたとき、2年目の女性をマンツーマンにつけて研修したのですが、ここでもひと悶着あって、2年目の女性がもう退職したいというので、ねじ子の研修は私が受け持つことにしたのです。新人なのに偉そうで、あんたはいったい何様なの、役員の縁故だから課長は忠告できないでいるけど、私は出世なんかどうでもいいからバンバン言うわよ、というわけでシゴイたのですが、のれんに腕押し、ぬかに釘。3年目になっても下働きしかさせられない女でした。ペアでする仕事に就かせたら、相手がみんな胃潰瘍になっちゃいそうですから、いつも一人でする仕事しか任せられません。

この顛末をどこからか聞きつけた課長がやってきて、

「あの意地や頑なさはいったいなぜ・・・」と、ため息をつきます。

私にはわかる。「人を何だと思っているのか」という意識がねじ子の根底にはあるのです。自分の思う自分の社会的位置と、社会で値踏みされる位置は違う。自任と他者評価は違うことに疎いタイプが少なからずいます。

「タイプして」「はい」で、すぐ終わる用事が、ねじ子にかかると1日を要し、関係ないスタッフまでが右往左往するのに、ねじ子だけが、平然としている。動かざること、山のごとし。

プライドの高い、自信過剰な部下に共通してある真の恐ろしさは、本人が生涯それに気づかないまま人生を終える可能性があるということです。憤りは自分に向かず、常に他者へ向く。私はそういうタイプには距離を置き、怒らないことにしていました。治らないし面倒だからです。ねじ曲がったプライドは一生直らない。これが経営者ならば、辞めさせる方向へ持っていくこともできますが、組織ですとそうもいきません。

しかし、自然に辞めさせる「おまじない」はあるのです。私はそれで、ねじ子から「退職届」を受け取りました。そのときは課長と二人、喝采を叫び、新橋のスナックで中森明菜を唄いまくりました。「DESIRE -情熱-」が街角に流れていた時代の話です。


2013. 10. 24  


8月29日、母はホスピスへ入れていただくことが出来ました。青森市には緩和ケア病棟を持つ病院が一先しかなく、これはもう、方位云々は言っていられないと、諦めもしていました。

しかし、8月は年月同盤であり、年月五黄中宮ですから、八方位に暗剣殺の作用が出てまいります。その時に、母を動かすのは避けたかったのですが、すでに自宅で看護するような状況ではなくなっていました。これもまた、母の運命であろうと考えるしかありません。

ところが9月下旬になって、母はホスピス内で部屋を移動することになりました。これが良かったのでしょう。小さなお引越しであり、暗剣殺から逃れることが出来ました。寝たきりの状態であることに変わりはありませんが、口からものが食べられるようになりました。病院の主菜・副菜にはあまり手をつけませんので、義妹が母の好きなものを持参してくれます。

昨日は、いちご味に練乳のかかった氷菓が食べたいと申しますので、病院内の売店に行きましたら、小豆に練乳のかかった白いのしかなく、仕方なくそれを買い求めましたが、「どうして、いちご味のがないの!」と、駄々をこねます(笑)すぐ、義妹にメールしましたら、一個、買い置きがあるということで、ホッとしました。

体調がよくないのは、グッとこらえることが出来る我慢強い母なのに、どうしてアイスは我慢出来ないのか、このあたりが、なんとも可笑しいのですが、どうしてもいちご味が食べたかったのでしょうね。不思議の国のアリスならぬ幸ちゃん。

このホスピスは看護師さんや看護助手さんたちが本当にやさしく、甲斐甲斐しく手当てをしてくださいます。感謝しても、しきれません。有難いことでございます。

入院している患者さんはすべて末期ガンの方たちばかりですから、土用の入りの頃は、亡くなられる方が続きました。

母の隣室に、食道ガンの末期の男性が入っておられました。咳が聞こえてくるので、あるいは肺にも転移されていたのでしょう。いつも、10時と15時には音楽を聴いていらっしゃいましたが、その音楽も聞こえなくなって一週間経った頃、いつも看病にいらしていた妹さんが、病室を出たり入ったりしていました。

その妹さんさんの、小学生の男の子が二人、談話室でぼんやりしていましたので、お腹が空いただろうと思い、柿や梨をむいて、チョコレートなんかと一緒に持っていきました。ちょっとたって、妹さんが御礼を述べられたので、「大変なときはお互いさま」と言いましたら、「たったいま、兄が亡くなりました」と仰って、涙ぐまれました。59歳だったそうです。

先週、新しく入って来た青年は、まだ20代ではないかと思うのですが、ホスピスに入るということは、長い未来はないということです。病室の名札のところに、ご自身の手書きの紙が貼ってあるのです。「負けない。折れない。絶望しない」と。たまに、部屋の入口にかかっているカーテンが空いていて、目が合ったりすると、どうしたものかと思いながら、思わずニッコリして手を振ってしまったりする、私です。心は時雨のごとき涙雨で一杯ですが。

病院内の売店まで行く道すがら、入院している方々の名札を何気なく目で追っていましたら、中学生のときに社会科を教わった先生のお名前があるのです。そこが、認知症病棟であることに胸がつまりました。往時は、スカッと爽やかで、かつ明晰な女性教師でした。「なぜ、ベトナム戦争が起こっているのか」、黒板に地図を書いて、東西冷戦を教えてくださった先生でした。

人の死にささやくばかり片時雨



2013. 06. 07  


長きにわたりご無沙汰してしまいました。

この間、多くの方々から励ましのメールやお電話を頂戴しましたが、電話に出ることもメールの返信もままならないような状況が続いておりました。連絡不行き届き、長期の休業に関しまして、衷心よりお詫び申し上げます。

鑑定につきましては別途スケジュール一覧をアップいたしますが、6月10日(月)から再開いたします。すぐにでも再開したいのはやまやまですが、実は帰省する前日に私自身が転居をしており、梱包をといて荷物整理をせねばなりません。そのようなわけで、もう少しお待ちくださいませ。

さて、母の病状と、治療を進めていく上での家族のさまざまな選択に関して、今後、みなさまのご参考になることもあるかと存じますので、書き進めてみたいと思います。母のプライバシーをブログ上で曝すことへのためらいが全く無いわけではありませんが、年老いた親を如何にして看取るかという問題は、老親を抱える方々にとっては等しく頭の痛い課題です。この記事が、少しでもみなさまのご参考になれば幸いです。長文になることをお許しください。

私の母は昭和7年2月生まれ。81歳になります。エリザベス・テイラーと誕生日が近いのですが、生まれた日が違うのでリズのような激しさもなければ後家相でもなく、平凡な昭和のお母さんとして生きて来ました。一年前までは非常に元気で、60代後半に老人性の喘息に若干苦しめられた以外にはこれといった病気もなく健康そのものでした。

しかし、母の健康に暗雲がたちこめはじめたのは80歳になってからです。「れいらん式」で観ましても、母の80代前半は赤信号が点滅しているのです。80歳から84歳までの5年間に何かが起こるだろうと予測していましたので、大腸ガンと聞いたときは、とうとう来たなと冷静に受けとめることができました。

母の場合は出血がひどくて貧血状態であり、また腸閉塞寸前であったので、4月12日に入院し25日には開腹手術が行われました。その間、母には絶食の措置が取られており、病室に配膳の香ばしいお醤油の匂いなどしてくると、食べさせてもらえない母がかわいそうで、「手術したら、また食べられるようになるからね」と慰めますと、母は「納豆ごはんが食べたい」と、少女のようにはにかむのでした。

手術の前日には、「手術したら、そのまま死んでしまうかも・・・」と、不安な胸のうちをポツリ洩らしたりしましたが、当日は私たち家族に手を振って、手術室の奥へと消えていきました。手術は4時間程度と聞いていましたが、思いのほか早く2時間で看護師さんに呼ばれたとき、とっさに、これは手が付けられないほど進んでいたに違いないと思いました。

案の定、外科医の説明は、十二指腸やリンパ節への転移があり、他臓器への転移は認められないのでstageⅢであること。ただ、ガンが思いのほか進んでおり、これを手術によって除去するとなると81歳の母の体力が持たないので、ガンにより閉塞した腸はそのままにして、食事が出来るように小腸のバイパス手術のみしたということでした。

若い執刀医は申し訳なさそうな顔をしていましたが、私は内心、これは母にとってラッキーなことだと考えました。私は事前に、大腸ガンに関してさまざまな文献を読みあさり、親友ままひこさんのアドバイス等(彼は開業前は数々の大腸ガンを執刀したベテラン外科医ゆえ)かなりの知識は蓄えていました。ラッキーの理由を列挙してみます。

 ① 執刀医の説明によれば、母のガンは筋層に進入した大腸ガンでありながら、幸いにも他臓器に転移は認められていないわけです。ままひこさんのアドバイスによれば、もし母の大腸ガンがタチの悪いものなら、腸閉塞寸前まで進行していたらすでに他臓器にも転移しているのが普通。ところが、臓器転移がないということは、母のガンはタチの良いガン(近藤誠先生流に言うならば”がんもどき”)であるということ。

 ② 今回の手術では大腸ガン自体には全く手がつけられませんでした。これが最大のラッキーな出来事だったと思います。もし、ガンに対して手術が行われていたならば、必然的に腹膜を切り開くことになるので、傷口にガン細胞が入り込み、爆発的に増殖した結果、腹膜転移が正常な腸管を巻き込んで腸閉塞を起こし、母は苦しめられ、寿命を縮めることになったでしょう。良い方位の病院で手術すると、土用中であっても物事は良い方向へ流れるということです。しかし予後が思いのほか大変だったのは土用中の手術のせいであったろうと思います。

 ③ バイパスを通してもらったことにより、腸閉塞を気にせず食事が取れるようになったこと。81歳の母にとって、もはや人生に楽しみごとは少なくなり、三度の食事と孫たちの進学や就職が何よりの喜びです。本人が食べたいものを、好きなだけ食べさせてやりたい、それが家族の願いでもあります。

そして術後の説明で、驚くことに執刀医は今後の治療に化学療法も視野に入れていきましょう、と言いました。これが一般的な外科医の方針であることは数々の文献で知っていましたが、81歳の高齢者にも抗ガン剤治療を施そうとするのは外科医の信念なのか、あるいは病院の経営問題なのか、全く腑に落ちませんでした。

手術で悪いところは全部取りましたが念のために化学療法を、という理由ならばわからないでもありませんが、開腹してもメスを入れることすら出来なかった末期ガンの患者に抗ガン剤を投与したら、縮命の害しかないでしょう。

私はきっぱりと化学療法を拒否しました。母を抗ガン剤治療で殺されてなるものか、母を守らなければ、その一念を私は最後まで貫き通しました。結局、最後は執刀医も折れ、緩和ケアの専門病院(ホスピス)へ紹介状を書いてくれました。

母の余命は6ヶ月と言われていますが、私はもっと生きると予測しています。ただ、母の運勢を観る限りでは、来年には命を持っていかれるのでしょう。よほどの奇跡が起こらない限り・・・。

つらいことですが、親との別れはいつの日かやってくることです。それまで涙などこぼしているヒマはないのですね。目の前にいる、病む母を看病するのが子の役目であり、看取るその日まで子は気丈でいなければなりません。泣くのは葬式が終わってからです。

母の場合、最後はホスピスで看取ることになるのでしょうが、それまでは自宅で家族に囲まれて、本人の好きなように過ごさせてやりたいと思いました。

そのためには、私が実家にいる間に介護保険の再申請をし、現状で要支援1の母を、要介護1か2までもっていかなければ、訪問看護やヘルパーさんに入浴の介助をお願いしたり、家の中に手すりを付けてもらうなど、介護態勢を整えることが出来ません。役所がからむことですから、向こうのペースでやられたら何ヶ月もかかってしまいます。担当者全員のお尻を叩きに叩いて、事前に主治医へ根回しもし、3週間ですべての体制作りを成し遂げました。かなり強引でしたが、我ながら良くやったと思います。

同時に私は、退院させる際の病院と自宅の方位についても考えていました。5月4日までに退院させられれば方位としてはセーフなのですが、5月5日以降は自宅が暗剣殺の方位になり、しかも年月同盤ですから、母にとっては一つも良いことがありません。これはネゴシエーションしかないと踏んで交渉したところ、医師はあっさりと5月4日の退院を許可しました。術後9日目ですので母は不安そうでしたが、アメリカではガンの手術をしても2~3日で退院させられ、それが問題ないことを間近に見て来ましたので、何とかなると考えていました。

ただ、術後の母は筋力が衰えてしまい、自力で寝起きが出来なくなってしまいました。食事やトイレのときには、私が起こさなくてはなりません。また、バイパスを通したせいなのか、あるいは大腸ガンがそうさせるのか、下痢が続き排便のコントロールが思うようにいかないのです。加えて発熱が続き、熱が出ると母は腰が立たなくなって、歩けなくなってしまうのです。

そうした母の介護は24時間体制であり、便の後始末との闘いでもありました。粗相してすまなそうにしている母を見ますと、老いのせつなさが込み上げてきます。「気にしないでね。病気だからこれは仕方ないことなのよ」と何度も慰めました。しかし、こちらの指示になかなか従わない頑固な母に対して、時には声を荒げることもあり、叱ったことをあとから後悔するのですが、実の親子とは良くしたものでお互いに悪感情が残らないから不思議です。

そうして介護に苦闘するうちに5月はまたたく間に過ぎ、母の体調次第では仕事を再開出来ないのではないかと気をもんでいたのですが、5月下旬から母の病状は奇跡的に回復しはじめました。少しずつ筋力がついて、幸いなことには自力で寝起きが出来るようになりました。

ガンの痛みは全くないのですが、だるさはどうしようもないようで、終日パジャマで過ごしているので、「パジャ子」と呼んでいます。朝食の後ゆっくりと新聞を読むと、パジャ子の母は居間の長椅子に横たわって、静かに目を瞑っています。

母には余命のことは全く話していません。術後、私たち家族は母に本当のことを告げるのは酷なので、全員が口裏を合わせることにしました。自身がおなかの上からさわっても、こぶのような固いものが残っていることは気がつくだろうから、「悪いところは取ったけれど、全部は取れなかった。ただ、老人だからあまり進行はしないそうよ。大丈夫。長生きできるから」そう話すことにしました。医師にもそのようにお願いしました。

家族全員が同じことを言うので、母もそれを信じているようですが、自身の死について考えない日はないのでしょう。ある朝、母を起こしに行きましたら、瞑っている母の目端に真珠のような涙が丸まっており、「どうしたの?」と問いかけると、母親(私の祖母)が夢に現われたそうです。50年も前に亡くなった母親の夢をみて、真珠のような涙を浮かべている母。そのような夢で涙ぐむような人ではなかっただけに、忍び寄る死を、口には出さねど心のどこかで覚悟しているのではないかと思います。

   行く春や夢をつないで亡母(はは)に逢ふ

胸のつまるような思いをグッと押し殺して、「ばあちゃんに逢えてよかったわねぇ」と明るく話しかけますと、子供のような表情で、こくんとうなずきました。

一昨日、父と母が旅のアルバムを見て、思い出話をしていました。両親は日本中を隈なく旅しており、膨大なアルバムが残っているのです。58年連れ添った妻が不治の病に冒され、先立つことを覚悟している父のつらさを思いましたが、心根のやさしい父は、母に残された少ない時間をおだやかに過ごさせてやりたいと願っているのでしょう。仲良く、楽しそうに語らっていました。

今回、介護のケアマネージャーやヘルパーさん、訪問看護師さんからから口々に、「家族が全員、協力しあって介護されているお宅は珍しいです」と言われましたが、これは二人の義妹のお蔭だと思っています。彼女たちの協力がなければ、このような雰囲気は家族間に出来なかったことです。我が家は本当に良いお嫁さんたちに恵まれました。それは、ふふ子さんからも指摘されました。そして、母自身もそれをよく理解しているのです。「みんなに看てもらえて、自分は幸せ者」だと。母がそう思ってくれていることを、うれしく思いました。




プロフィール

れいらん

Author:れいらん
ご訪問ありがとうございます。

東洋占術歴40年になります。占い師とは「人を幸せに導く職業」だと思ってきました。同時に、多くの方のさまざまな悩み苦しみに接し、人ひとりが人生を生きく抜くことの困難さに思いを馳せずにはいられません。思えば私たちの人生はこころの旅であり、こころには喜びが必要です。こころがつらいとき、どんなに強い人でも自分を支えていくのは難しいことです。その苦しみからどうやって抜け出すか、私の占いが少しでもお役に立てれば幸いです。占いを通じて多くの方々の人生に接してきました。その喜びや哀しみに共感し、一喜一憂する日々はまた、私自身のこころの旅でもありました。

長きにわたり、ご紹介のお客さま限定の対面鑑定をしてまいりましたが、少しでも多くの方のお力になりたいと思い、このブログからの電話鑑定も受け付けることにいたしました。電話が苦手という方にはメール鑑定もご用意しておりますが、電話の方がよりニュアンスが伝わりやすいと存じます。

東洋占術にはそれぞれ得意とする分野があり、ご相談の内容によりもっとも適切な占術をこちらで判断の上、鑑定いたします。

ご依頼の方は、カテゴリの「鑑定の申込み方法」をクリックし

 leilan808@gmail.com

まで、ご連絡くださいませ。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR